– 死とは無なのか?
– 死後の状態について教えていただけますか?
親愛なる兄弟よ、
死ぬのは魂ではなく、肉体です。人間とは本質的に魂のことです。肉体は魂の住処、あるいは衣のようなものです。衣が変化したり、破れたり、失われたりしても、その人の存在に害はありません。この世で私たちに肉体を与え、宇宙との関係を築かせてくださった神は、私たちがこの世から去るとき、魂をその衣から外し、その住処から解放してくださいます。バーザフと呼ばれる墓の生活の後、人々が永遠の生活のために復活させられるとき、つまり魂にその世界に適した肉体が与えられるのです。
死とは無ではない。虚無ではない。
この点に関して、ヌール・キュリヤット(Nur Külliyat)から以下の教訓を伝えたいと思います。
死とは処刑ではなく、場所の移動である。墓とは、暗闇の穴ではなく、光輝く世界の入り口である。この世は、どんなに華やかであっても、あの世に比べれば牢獄のようなものだ。もちろん、この世の牢獄から楽園の庭園へ、そして肉体の騒がしい生活から魂の安らぎの場へ、そして衆生の煩わしい騒音から離れて、ラフマーンの御前へ行くことは、千の命をかけても望むべき旅であり、もしかしたら至福なことかもしれない。」
「生命が世に現れるのが創造と摂理によるものであるように、世を去るのも創造と摂理、知恵と計らいによるものである。なぜなら、最も単純な生命の層である植物の死は、生命よりも秩序正しい芸術作品であることを示しているからだ。実、種、種子の死は、腐敗して朽ち果て、散らばるように見えるが、それは非常に秩序正しい化学作用と、バランスのとれた元素の混合、そして知恵に満ちた微粒子の組織化からなる、見えない秩序と知恵に満ちた死であり、その死はヒヤシンスの生命によって顕現する。つまり、種子の死はヒヤシンスの生命の始まりであり、もしかしたら生命そのものと等しいので、この死も生命と同じように創造され、秩序正しいのである。」
「生きている果物や動物が人間の胃の中で死ぬことは、人間の生命に繋がる始まりとなるからだ。」と、言われる。
「植物界という、最も低位の生命の死が、このように有益で、知恵に満ち、秩序正しくあるならば、生命の最上位である人間界の死も、地下に埋まった種子が空気圏で木になるように、地下に逝った人間も、必ずやバーザハ界で永遠の生命の穂を実らせるであろう。」
ご挨拶と祈りを込めて…
質問で学ぶイスラム教